第12章:真のナブラ —— クリフォード・パウリ・ディラック・ハミルトン

§12.0 2本を1本に

 第10章の注釈内で、実はこんなことを書いていた——「なぜ2本なのか。$dF=0$ と $d(\ast F)=\mu_0(\ast\mathcal{J})$ を1本にまとめられないのか」と。

できるのだ。それも、あっさりと。虚数単位 $i$ を持ち出せば、一行の複素方程式にまとめられる。本章ではまずその「トリック」を見てから、その先にあるもっと統合的な視点——パウリ行列とディラック演算子——へと進む。

(本章の立ち位置)本章は発展的な補足であり、本書の本線からは外れている。第9章でベクトル解析の書き換えは完了し、第10章でマクスウェル方程式の行列展開も終えた。本章では、厳密な幾何代数(クリフォード代数)の教科書を書くつもりはない。目的は、本書で解体してきた grad・rot・div が、パウリ行列とディラック演算子の中で再び一つの演算へ統合される様子を、計算の入口として見ることである。


§12.1 虚数で一本に —— マクスウェル方程式の統合

第10章で我々は、マクスウェル方程式を

$$dF = 0, \qquad d(\ast F) = \mu_0(\ast\mathcal{J})$$

の2本に集約した。ここで $F$ も $\ast F$ も $2$-form であることに注目しよう。4次元時空では、ホッジ・スター $\ast$ は $2$-form を $2$-form に写す。だから $F$ と $\ast F$ は同じ次数の形式だ。

同じ次数なら、足し算に支障はない。虚数単位 $i$ を使って一つの複素 $2$-form を作る(本章では第10章の符号規約に従う。ローレンツ計量上の Hodge star では $\ast^2$ の符号が次元やシグネチャの規約に依存するため、ここでは成分展開との整合性を優先して記述する)。

$$G = F + i\ast F$$

$G$ に外微分 $d$ を作用させる。$d$ は実数の微分演算子だから、$d(i\ast F) = i\,d(\ast F)$ である。

$$dG = dF + i\,d(\ast F) = 0 + i\mu_0(\ast\mathcal{J})$$

すなわち

$$d(F + i\ast F) = i\mu_0(\ast\mathcal{J})$$

これだけだ。$dF=0$ と $d(\ast F)=\mu_0(\ast\mathcal{J})$ の2本が、たった一本の複素方程式に統合された。$F$ と $\ast F$ という実部と虚部が、それぞれ無源側と有源側のマクスウェル方程式を分担している。

しかし、ここで立ち止まって考えてほしい。このトリックが成り立つのは、たまたま 4次元で $\ast$ が $2$-form を $2$-form に写すからだ。一般の $n$ 次元では $\ast$ は $k$-form を $(n-k)$-form に写す。$2$-form と $2$-form を足せるのは $n=4$ の特権であり、ましてや $1$-form と $2$-form を直接足すことは、通常の微分形式の枠組みでは許されていない。

$d$ と $\ast$ を組み合わせたとき、grad($0\to1$)、rot($1\to1$)、div($1\to0$)といった異なる次数の間の変換が現れる。これらの元を一つの代数の中でまとめて扱うことができれば、$\nabla$ の解体ではなく、$\nabla$ の統合ができるはずだ。

異なる次数の形式を足し合わせる——そんな「魔法の箱」はないものだろうか。


§12.2 パウリ行列 —— 異なる次数を足す魔法

「魔法の箱」が、実はある。物理学者たちが量子力学のために発見した道具が、そのままこの魔法の箱として使える。パウリ行列だ。より正確には、ここで見るのは 3次元ユークリッド空間のクリフォード代数を、パウリ行列で表現したものである。微分形式そのものではなく、各次数(0〜3次)の基底をこの代数の中に(本章の規約に沿って)対応させている。

12.2.1 パウリ行列の定義と掛け算

パウリ行列 $\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$ は次の $2\times2$ 行列である。

$$ \sigma_1 = \begin{pmatrix}0 & 1 \\ 1 & 0\end{pmatrix},\quad \sigma_2 = \begin{pmatrix}0 & -i \\ i & 0\end{pmatrix},\quad \sigma_3 = \begin{pmatrix}1 & 0 \\ 0 & -1\end{pmatrix} $$

これらの掛け算規則を調べてみよう。単独では $\sigma_1^2 = \sigma_2^2 = \sigma_3^2 = I$(単位行列)であり、異なるもの同士では $\sigma_1\sigma_2 = -\sigma_2\sigma_1$ という反可換性が成り立つ。積は全部で9通りある。

$$ \begin{aligned} \sigma_1\sigma_1 = I,\quad &\sigma_1\sigma_2 = i\sigma_3,\quad &\sigma_1\sigma_3 = -i\sigma_2 \\ \sigma_2\sigma_1 = -i\sigma_3,\quad &\sigma_2\sigma_2 = I,\quad &\sigma_2\sigma_3 = i\sigma_1 \\ \sigma_3\sigma_1 = i\sigma_2,\quad &\sigma_3\sigma_2 = -i\sigma_1,\quad &\sigma_3\sigma_3 = I \end{aligned} $$

この9通りの積を、対称部分と反対称部分に分解してみよう。第2章でウェッジ積 $\wedge$ を反対称化によって導入したのと同じ発想である。

同じ添字どうし($\sigma_1\sigma_1$, $\sigma_2\sigma_2$, $\sigma_3\sigma_3$)の対称部分は $I$、反対称部分は $0$ だ。異なる添字の場合は、たとえば $\sigma_1\sigma_2 = i\sigma_3$ について、

$$ \frac{1}{2}(\sigma_1\sigma_2 + \sigma_2\sigma_1) = \frac{i\sigma_3 + (-i\sigma_3)}{2} = 0,\qquad \frac{1}{2}(\sigma_1\sigma_2 - \sigma_2\sigma_1) = \frac{i\sigma_3 - (-i\sigma_3)}{2} = i\sigma_3 $$

という具合に、異なる添字の積は純粋に反対称である。対称部分は添字が同じときだけ $I$、それ以外は $0$——これは第6章で導入した計量(デカルト座標では単位行列)が、パウリ行列の積の対称部分として姿を現したことにほかならない。反対称部分は添字を入れ替えると符号が反転する——第2章のウェッジ積 $dx\wedge dy = -dy\wedge dx$ とまったく同じ構造だ。

パウリ行列の積は、つねに「内積(対称部分)$+$ ウェッジ積(反対称部分)」に分解される。この一点が、パウリ行列のすべての魔法の源である。

12.2.2 ベクトルをパウリ行列で書く

3次元ベクトル $\mathbf{v} = (v_1, v_2, v_3)$ をパウリ行列で表してみよう。

$$V = v_1\sigma_1 + v_2\sigma_2 + v_3\sigma_3 = \mathbf{v}\!\cdot\!\bm{\sigma}$$

二つのベクトル $\mathbf{v}, \mathbf{w}$ に対応するパウリ行列 $V = \mathbf{v}\!\cdot\!\bm{\sigma}$, $W = \mathbf{w}\!\cdot\!\bm{\sigma}$ の積を計算する。

$$ \begin{aligned} VW &= (v_1\sigma_1 + v_2\sigma_2 + v_3\sigma_3)(w_1\sigma_1 + w_2\sigma_2 + w_3\sigma_3) \\[4pt] &= v_1w_1\sigma_1\sigma_1 + v_1w_2\sigma_1\sigma_2 + v_1w_3\sigma_1\sigma_3 \\ &\quad + v_2w_1\sigma_2\sigma_1 + v_2w_2\sigma_2\sigma_2 + v_2w_3\sigma_2\sigma_3 \\ &\quad + v_3w_1\sigma_3\sigma_1 + v_3w_2\sigma_3\sigma_2 + v_3w_3\sigma_3\sigma_3 \end{aligned} $$

上記の9通りの積を各項に適用する。非ゼロの置き換えだけ書けば

$$ \sigma_1\sigma_1 = I,\quad \sigma_2\sigma_2 = I,\quad \sigma_3\sigma_3 = I,\quad \sigma_1\sigma_2 = i\sigma_3,\quad \sigma_2\sigma_3 = i\sigma_1,\quad \sigma_3\sigma_1 = i\sigma_2 $$

と、これらの添字を逆順にした $\sigma_2\sigma_1 = -i\sigma_3$, $\sigma_3\sigma_2 = -i\sigma_1$, $\sigma_1\sigma_3 = -i\sigma_2$ の計9通りである。$I$ の係数(対称部分=内積)と $\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ の係数(反対称部分=ウェッジ積)をそれぞれ集める。

$$ \begin{aligned} I\text{ の係数(内積)} &: v_1w_1 + v_2w_2 + v_3w_3 \;=\; \mathbf{v}\!\cdot\!\mathbf{w} \\ \sigma_1\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,(v_2w_3 - v_3w_2) \\ \sigma_2\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,(v_3w_1 - v_1w_3) \\ \sigma_3\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,(v_1w_2 - v_2w_1) \end{aligned} $$

$\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ の係数カッコ内は、第2章で定義したウェッジ積 $\mathbf{v}\wedge\mathbf{w}$ の各成分そのものである。したがって

$$VW = (\mathbf{v}\!\cdot\!\mathbf{w})\,I \;+\; i\,(\mathbf{v}\times\mathbf{w})\!\cdot\!\bm{\sigma}$$

と、内積 $+$ ウェッジ積の形にまとまる。内積と外積が、一つの積 $VW$ から同時に現れた。右辺の $(\mathbf{v}\times\mathbf{w})$ は、第2章の向き付き面積規約(デカルト右手系)と整合するクロス積であり、対応する $2$-form 成分 $\mathbf{v}\wedge\mathbf{w}$ と同じ情報を別表現で運んでいる——同一視ではなく、3次元・右手系での対応である。

これが「魔法の箱」の正体だ。より正確には、ここで見ているのは3次元ユークリッド空間のクリフォード代数を、パウリ行列で表現したものである。その積は、内積($0$-form に相当するスカラー)と外積($2$-form に相当するウェッジ積)を、一つの演算で同時に生み出す。通常の微分形式では別々の次数に属していたものが、この行列表現の中では一つの $2\times2$ 行列として共存している。

(なぜ $2\times2$ なのか)ベクトルを $2\times2$ 行列で表すのは奇妙に思えるかもしれない。しかし、内積とウェッジ積の両方を一つの積で表現するには、少なくとも非可換な代数が必要であり、その最小の実現が $2\times2$ 複素行列なのである。本書の流儀でいえば、$1$-form(横ベクトル $1\times3$)と $2$-form(反対称 $3\times3$ 行列)という次数の異なる二つの対象を、一つの $2\times2$ 行列の中に押し込めた——そう考えればよい。

12.2.3 スカラーも混ぜて足す

ここまでで、ベクトル($1$-form)とウェッジ積($2$-form)が $VW$ という一通りの計算で同時に出てくることがわかった。さらに一歩進めて、スカラー($0$-form)そのものも同じ代数に混ぜよう。

パウリ行列の線形結合で表される最も一般的な $2\times2$ 行列は

$$\psi = \varphi\,I + A_1\sigma_1 + A_2\sigma_2 + A_3\sigma_3$$

の形をしている。$\varphi$ はスカラー($0$-form)、$A_1,A_2,A_3$ はベクトルの成分($1$-form)である。さらに $\psi$ に左から $\sigma_i$ を掛ければ、$2$-form に相当する $i\sigma_k$ の項まで現れる。つまり、本章の規約では、$0,1,2,3$-form の各次数の基底をこの代数の中に対応させられる。

(何ができるようになったのか)微分形式でも異なる次数の形式を直和として形式的に並べることはできる。しかし、内積(縮約)と外積(反対称化)を一つの積として同時に扱うには、通常のウェッジ積だけでは足りない。パウリ行列の代数では、それらが一つの積 $VW$ の中で自然に分離・共存する。これが幾何代数の核心である。

(全次数の対応)本章の規約における次数対応を整理しておく。$I$ が $0$-form(スカラー)、$\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ が $1$-form(ベクトル)、$i\sigma_1,i\sigma_2,i\sigma_3$ が $2$-form(バイベクトル)、$iI$ が $3$-form(擬スカラー)に対応する。これは微分形式そのものとの同一視ではなく、3次元ユークリッドのクリフォード代数の行列表現の中に、各次数の基底を対応させる約束である。最も一般的な元は $\psi = aI + \mathbf{v}\!\cdot\!\bm{\sigma} + i\,\mathbf{w}\!\cdot\!\bm{\sigma} + ibI$ の形で、4つの次数すべてを複素係数で含んでいる。

(四元数——すでにあった魔法の箱)実はこの「スカラーとベクトルを一つの数に混ぜる」という発想は、パウリ行列よりもずっと古い。行列代数よりも古い。1843年にハミルトンが発見した四元数(quaternion) $q = a + bi + cj + dk$ がまさにそれだ。マクスウェルは自身の電磁気学を四元数で定式化していた。しかしその後、ギブズとヘヴィサイドが四元数からスカラー部分とベクトル部分を分離し、現代のベクトル解析(内積とクロス積)が誕生した。本書の視点からは、パウリ行列は、いったん内積・外積へ分かれた構造を、量子力学の文脈で再び一つの非可換積として眺め直す道具にも見える。

(行列なき時代のベクトル解析)ギブズとヘヴィサイドがベクトル解析を整備した1880年代には、まだ行列代数が一般的ではなかった。行列式はあったが、行列そのものの代数——積の非可換性、固有値、線形変換としての統一的理解——は、ケイリーの先駆的研究を経て、20世紀初頭のヒルベルトらによってようやく整備される。ギブズは線形変換を表すためにダイアド(dyad) $\mathbf{a}\mathbf{b}$ という独自の記法を発明したが、これは現代の行列 $\mathbf{a}\mathbf{b}^T$ に相当する。本書の視点から見ると、ベクトル解析は四元数的な統合から、内積・外積・ダイアド的な道具へと分化していったものとして眺めることができる。本書が「ナブラ解体新書」と題して $\nabla$ を $d$ と $\ast$ に分解し、最終章でパウリ行列による再統合を見せたことには、この分離と統合を繰り返してきた道具立てを、別の角度から見直す意味もある。

(行列代数が物理学者の標準語でなかったこと)なお、行列代数が物理学者の標準語でなかったことは、1925年の行列力学にもよく現れている。ハイゼンベルク自身は当初、自分の計算が行列の非可換積であることを知らず、それを行列として読んだのはボルンだった。


§12.3 ディラック演算子と「真のナブラ」

12.3.1 $\bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla$ —— 統合的な微分演算子

パウリ行列とナブラ $\nabla = (\frac{\partial}{\partial x}, \frac{\partial}{\partial y}, \frac{\partial}{\partial z})$ を組み合わせて、次の演算子を定義する。

$$D = \sigma_1\frac{\partial}{\partial x} + \sigma_2\frac{\partial}{\partial y} + \sigma_3\frac{\partial}{\partial z} = \bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla$$

$D$ は $2\times2$ 行列の形をした微分演算子である。これをスカラー場 $\varphi$ に作用させてみよう。

$$D\varphi = \sigma_1\frac{\partial\varphi}{\partial x} + \sigma_2\frac{\partial\varphi}{\partial y} + \sigma_3\frac{\partial\varphi}{\partial z} = (\nabla\varphi)\!\cdot\!\bm{\sigma}$$

これは $\mathrm{grad}\,\varphi$ をパウリ行列で表したものだ。

次に、ベクトル場 $\mathbf{A} = (A_1, A_2, A_3)$ をパウリ行列で $A = \mathbf{A}\!\cdot\!\bm{\sigma}$ と書いて $D$ を作用させる。§12.2.2 の積の公式を思い出そう。

$$ \begin{aligned} D A &= (\sigma_1\tfrac{\partial}{\partial x} + \sigma_2\tfrac{\partial}{\partial y} + \sigma_3\tfrac{\partial}{\partial z})(A_1\sigma_1 + A_2\sigma_2 + A_3\sigma_3) \\[4pt] &= \tfrac{\partial A_1}{\partial x}\,\sigma_1\sigma_1 + \tfrac{\partial A_2}{\partial x}\,\sigma_1\sigma_2 + \tfrac{\partial A_3}{\partial x}\,\sigma_1\sigma_3 \\ &\quad + \tfrac{\partial A_1}{\partial y}\,\sigma_2\sigma_1 + \tfrac{\partial A_2}{\partial y}\,\sigma_2\sigma_2 + \tfrac{\partial A_3}{\partial y}\,\sigma_2\sigma_3 \\ &\quad + \tfrac{\partial A_1}{\partial z}\,\sigma_3\sigma_1 + \tfrac{\partial A_2}{\partial z}\,\sigma_3\sigma_2 + \tfrac{\partial A_3}{\partial z}\,\sigma_3\sigma_3 \end{aligned} $$

§12.2.2 と同じ $\sigma_i\sigma_j$ の置き換えを9項に適用し、$I$ の係数(内積=発散)と $\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ の係数(ウェッジ積=回転)を集める。

$$ \begin{aligned} I\text{ の係数} &: \frac{\partial A_1}{\partial x} + \frac{\partial A_2}{\partial y} + \frac{\partial A_3}{\partial z} = \mathrm{div}\,\mathbf{A} \\ \sigma_1\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,\left(\frac{\partial A_3}{\partial y} - \frac{\partial A_2}{\partial z}\right) \\ \sigma_2\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,\left(\frac{\partial A_1}{\partial z} - \frac{\partial A_3}{\partial x}\right) \\ \sigma_3\text{ の係数($\wedge$)} &: i\,\left(\frac{\partial A_2}{\partial x} - \frac{\partial A_1}{\partial y}\right) \end{aligned} $$

$\sigma_k$ の係数カッコ内は $\mathrm{rot}\,\mathbf{A}$ の各成分——第8章の辞書で $\mathbf{A}$ に対応する $1$-form $\alpha$ に $d$ を作用させて得られる $2$-form $d\alpha$ の成分——にほかならない。したがって

$$D(\mathbf{A}\!\cdot\!\bm{\sigma}) = (\mathrm{div}\,\mathbf{A})\,I \;+\; i\,(\mathrm{rot}\,\mathbf{A})\!\cdot\!\bm{\sigma}$$

一つの演算子 $D$ が、$\mathrm{grad}$($D\varphi$)、$\mathrm{div}$($DA$ の実部)、$\mathrm{rot}$($DA$ の虚部)を同時に導き出す。 これこそが、$\nabla$ を $d$ と $\ast$ に分解して理解を深めてきた旅の、一つの終着点——統合——にほかならない。

($d$ と $\ast$ で書くと)$D$ は本書の言葉でも表現できる。符号規約を別にすれば、$D$ は $d$(次数を上げる)と $\ast d\ast$(次数を下げる)を合わせた演算子として理解できる。$\ast d\ast$ は余微分(codifferential) $\delta$ と呼ばれ、$\delta = \pm\ast d\ast$(符号は次元と次数に依存)と定義される。ここでは厳密な符号には立ち入らず、$D \sim d + \delta$ という構造だけを押さえておく。$d$ が次数を上げ、$\delta$ が次数を下げる——この二つを足した $D$ が、grad・rot・div を一つの演算子に束ねているのだ。

12.3.2 $D^2$ —— ラプラシアン

さらに $D$ を二度作用させるとどうなるか。

$$D^2 = (\bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla)(\bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla) = (\sigma_1\frac{\partial}{\partial x} + \sigma_2\frac{\partial}{\partial y} + \sigma_3\frac{\partial}{\partial z})(\sigma_1\frac{\partial}{\partial x} + \sigma_2\frac{\partial}{\partial y} + \sigma_3\frac{\partial}{\partial z})$$

9項に展開する。

$$ \begin{aligned} D^2 &= \sigma_1\sigma_1\,\frac{\partial^2}{\partial x^2} + \sigma_1\sigma_2\,\frac{\partial^2}{\partial x\partial y} + \sigma_1\sigma_3\,\frac{\partial^2}{\partial x\partial z} \\ &\quad + \sigma_2\sigma_1\,\frac{\partial^2}{\partial y\partial x} + \sigma_2\sigma_2\,\frac{\partial^2}{\partial y^2} + \sigma_2\sigma_3\,\frac{\partial^2}{\partial y\partial z} \\ &\quad + \sigma_3\sigma_1\,\frac{\partial^2}{\partial z\partial x} + \sigma_3\sigma_2\,\frac{\partial^2}{\partial z\partial y} + \sigma_3\sigma_3\,\frac{\partial^2}{\partial z^2} \end{aligned} $$

$\sigma_i\sigma_j$ の反対称部分($i\neq j$ の項、すなわち $\sigma_1\sigma_2 = i\sigma_3$ など)を含む項は、偏微分の可換性 $\frac{\partial^2}{\partial x\partial y} = \frac{\partial^2}{\partial y\partial x}$ により、符号が逆のペア同士で打ち消し合う。たとえば $\sigma_1\sigma_2\,\frac{\partial^2}{\partial x\partial y}$ と $\sigma_2\sigma_1\,\frac{\partial^2}{\partial y\partial x}$ は、$\sigma_2\sigma_1 = -\sigma_1\sigma_2$ かつ $\frac{\partial^2}{\partial y\partial x} = \frac{\partial^2}{\partial x\partial y}$ だから、足してゼロ。残るのは $\sigma_i\sigma_i = I$ の対角項だけである。

$$D^2 = \left(\frac{\partial^2}{\partial x^2} + \frac{\partial^2}{\partial y^2} + \frac{\partial^2}{\partial z^2}\right)I = \nabla^2 I$$

$D^2$ はラプラシアンそのものである。$D$ はラプラシアンの「平方根」なのだ。この事実——微分演算子の平方根をとる——が、ディラックが相対論的量子力学で電子の方程式を導いたときの核心的な洞察だった。

12.3.3 マクスウェルを一本に —— 再訪

§12.1 では $F + i\ast F$ によって4次元でマクスウェル方程式を一本化した。$D$ を使えば、同じことが3次元の言葉だけで書ける。

電場 $\mathbf{E}$ と磁場 $\mathbf{B}$ を一つの複素ベクトルに束ねる。これはリーマン-ジルバーシュタイン・ベクトルと呼ばれる。

$$\mathbf{F} = \mathbf{E} + i\mathbf{B}$$

パウリ行列で書けば $F = \mathbf{E}\!\cdot\!\bm{\sigma} + i\,\mathbf{B}\!\cdot\!\bm{\sigma}$ である。$F$ はスカラー部を持たない純粋な複素パウリ・ベクトルだ。時間微分を含めた演算子 $D + \frac{\partial}{\partial t}$ を作用させる。

$$(D + \frac{\partial}{\partial t})F = (\bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla + \frac{\partial}{\partial t})(\mathbf{E}\!\cdot\!\bm{\sigma} + i\,\mathbf{B}\!\cdot\!\bm{\sigma})$$

§12.3.1 の $D(\mathbf{A}\!\cdot\!\bm{\sigma})$ の公式を $\mathbf{E}$ と $\mathbf{B}$ の両方に適用する。

$$ \begin{aligned} (D + \frac{\partial}{\partial t})F &= (\mathrm{div}\,\mathbf{E})\,I + i\,(\mathrm{rot}\,\mathbf{E})\!\cdot\!\bm{\sigma} + \frac{\partial}{\partial t}\mathbf{E}\!\cdot\!\bm{\sigma} \\ &\quad + i\,(\mathrm{div}\,\mathbf{B})\,I - (\mathrm{rot}\,\mathbf{B})\!\cdot\!\bm{\sigma} + i\,\frac{\partial}{\partial t}\mathbf{B}\!\cdot\!\bm{\sigma} \end{aligned} $$

実部と虚部、そして $I$(スカラー)と $\bm{\sigma}$(ベクトル)の各成分に整理する。

$$ \begin{aligned} \text{実部・}I &: \mathrm{div}\,\mathbf{E} - 0 \\ \text{実部・}\bm{\sigma} &: \frac{\partial}{\partial t}\mathbf{E} - \mathrm{rot}\,\mathbf{B} \\ \text{虚部・}I &: 0 + \mathrm{div}\,\mathbf{B} \\ \text{虚部・}\bm{\sigma} &: \mathrm{rot}\,\mathbf{E} + \frac{\partial}{\partial t}\mathbf{B} \end{aligned} $$

これらをゼロとおけば、真空のマクスウェル方程式4本がすべて現れる。電流 $\mathbf{J}$ と電荷密度 $\rho_{\mathrm e}$ がある場合は、第10章と同じ正規化のもとで右辺を $\rho_{\mathrm e}/\varepsilon_0 - \mu_0 c \mathbf{J}\!\cdot\!\bm{\sigma}$ と置けば、源のあるマクスウェル方程式が一行にまとまる。

$$(D + \frac{\partial}{\partial t})F = \frac{\rho_{\mathrm e}}{\varepsilon_0} - \mu_0 c \mathbf{J}\!\cdot\!\bm{\sigma}$$

(第12章での正規化と符号)

ここでの $t, \mathbf{B}, \rho_{\mathrm e}, \mathbf{J}$ は第10章 §10.1–10.5 と同様に正規化された量である。右辺の源の係数と符号は、第10章の $d(\ast F) = \mu_0(\ast\mathcal{J})$ の展開結果と整合するように選ばれている。

$dF=0$ と $d(\ast F)=\mu_0(\ast\mathcal{J})$ の2本が、$D$ の前ではたった一本の複素方程式に統合された。§12.1 の4次元トリックが特殊な次元に依存していたのに対し、こちらは $D$ という統合された演算子そのものが統合を実現している。

12.3.4 $\cancel{\partial} F = J$ —— 4次元時空のディラック演算子

§12.3.3 の $(D + \frac{\partial}{\partial t})F = \rho_{\mathrm e}/\varepsilon_0 - \mu_0 c \mathbf{J}\!\cdot\!\bm{\sigma}$ には、時間と空間が分離して現れている。これは3次元のパウリ行列 $\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ をベースに組み立てたからだ。4次元時空を最初から扱えば、この分離すら消える。

パウリ行列を $4\times4$ に拡張したものがガンマ行列 $\gamma^0,\gamma^1,\gamma^2,\gamma^3$ である。これらは反可換性 $\gamma^\mu\gamma^\nu + \gamma^\nu\gamma^\mu = 2g^{\mu\nu}I$ を満たす($g^{\mu\nu}$ はミンコフスキー計量)。この式に現れる実数係数の符号は、選んだ計量シグネチャや添字の上下の規約に依存する。本章では、第10章と同じく時空計量のシグネチャを $(-,+,+,+)$ とした規約を採用する。このガンマ行列を用いて、4次元のディラック演算子を

$$\cancel{\partial} = \gamma^0\frac{\partial}{\partial t} + \gamma^1\frac{\partial}{\partial x} + \gamma^2\frac{\partial}{\partial y} + \gamma^3\frac{\partial}{\partial z}$$

と定義する。第10章の電磁場 $F$($4\times4$ 反対称行列)をガンマ行列のウェッジ積 $\gamma^\mu\!\wedge\!\gamma^\nu$ で展開したものと同一視すれば、マクスウェル方程式は

$$\cancel{\partial} F = J$$

の一行にまとめられる、というのが幾何代数側の標準的な見取り図である。$F$ は電磁場、$J$ は4元電流($\gamma^\mu$ で展開されたもの)。真空では $\cancel{\partial} F = 0$である。

($\cancel{\partial} F$ の積について)ここでの積は通常の行列積ではなく、ガンマ行列が生成する幾何代数の積である。第10章の反対称行列 $F$ は、ここでは $\gamma^\mu\!\wedge\!\gamma^\nu$ で展開された2-vectorとして再解釈される。細部は幾何代数の教科書に譲るが、$\sigma_i\sigma_j = \delta_{ij}I + i\varepsilon_{ijk}\sigma_k$(§12.2.1)の4次元版がここでも成り立っていると考えればよい。

§12.1 の $F + i\ast F$ も、§12.3.3 の $(D + \frac{\partial}{\partial t})F$ も、すべてこの一行に吸収される。これが、$\nabla$ の解体から始まった旅の、最も遠くにある風景である。ディラックが1928年に電子の方程式を導くために発見したこの演算子は、時空の幾何と物理法則を一つの代数で記述する幾何代数(Geometric Algebra)の核であり、Doran & Lasenby の Geometric Algebra for Physicists に詳しい。

§12.4 演算子$\nabla$

さあ、ここで最初の問いに戻ろう。$\nabla$ とは何だったのか。

ベクトル解析では、$\nabla$ は「偏微分を並べた形式的なベクトル」として導入され、grad・rot・div の三つの顔を持つ謎めいた記号だった。本書はそれを $d$ と $\ast$ に解体することで、各演算の正体を明らかにしてきた。

そして今、これを逆方向に辿り、$d$ と $\ast$ というバラバラだった部品が、幾何代数の中で3次元のディラック演算子$D = \bm{\sigma}\!\cdot\!\nabla$ として統合され、更にその4次元版のディラック演算子$\cancel{\partial}$が、究極のマクスウェル方程式 $\cancel{\partial} F = J$ を与えた。

ところで、幾何代数の文脈では、この演算子を必ずしも$\cancel{\partial}$ とは書かない。むしろ、この種のベクトル微分演算子を

$$ \nabla $$

と書く。