第8章:二つの言語 —— 測定器の微分と、場の微分
§8.0 本書のハイライト
ここまで長かった。第1章で $dx$ を行ベクトルと定義し、第2章で面積測定器と体積測定器を組み立て、第3章で積分を再構築し、第5章で外微分 $d$ を得て、第6章で計量 $g$ とホッジ・スター $\ast$ を手に入れ、そして第7章ではついに $\nabla$ を正面から定義してベクトル解析を一気に展開した。
ここから先は、もう遠慮しない。$d$ も $\ast$ も $\nabla$ も、すべての道具が揃った。ベクトル解析の用語を引き合いに出すのに、もはや「ベクトル解析を知っている読者へ」と断る必要もない。第7章で $\nabla$ は正式に本書の住人になったのだから。
本章は、この本のハイライトである。中心となる翻訳そのものは、驚くほど短い。ただし最後に、次章の実践編へ進むために、曲線座標でこの辞書がどう動くかを一度だけ見ておく。そのために第1章から第7章までの入念な準備があった——行列、ウェッジ積、外微分、計量、ホッジ・スター、そしてベクトル解析。これらの道具がすべて揃っているからこそ、本章ではただ「翻訳する」だけで、二つの世界が一つの絵に収まる。我々は二つの言語を手に入れた——測定器の微分($d$)と、場の微分($\nabla$)。この二つは、やっていることが根本的に違う。しかし積分を通じて繋がるとき、まったく同じ結果を与える。その仕組みを、これから徹底的に掘り下げる。
§8.1 二つの微分、二つの世界
8.1.1 測定器に微分を乗せる——$d$ の立場
第1章以来、我々は $dx = \begin{pmatrix}1&0&0\end{pmatrix}$, $dy = \begin{pmatrix}0&1&0\end{pmatrix}$, $dz = \begin{pmatrix}0&0&1\end{pmatrix}$ を横ベクトルの測定器として扱ってきた。これらは縦ベクトル(変位)を食わせると、その方向の変位量をスカラーで返す。
外微分 $d$ は、この測定器に微分を乗せる操作である。
$f(x,y,z)$ がスカラー場のとき、$df$ は $f$ の変化を測る新しい測定器だ。各偏微分係数を成分として持つ横ベクトルになる。
$$df = \frac{\partial f}{\partial x}\,dx + \frac{\partial f}{\partial y}\,dy + \frac{\partial f}{\partial z}\,dz = \begin{pmatrix} \frac{\partial f}{\partial x} & \frac{\partial f}{\partial y} & \frac{\partial f}{\partial z} \end{pmatrix}$$$\omega = P\,dx + Q\,dy + R\,dz$ が $1$-form のとき、$d\omega$ は $\omega$ の局所的なズレを測る $2$-form(反対称行列)になる。
$$d\omega = \left(\frac{\partial R}{\partial y}-\frac{\partial Q}{\partial z}\right)dy\wedge dz + \left(\frac{\partial P}{\partial z}-\frac{\partial R}{\partial x}\right)dz\wedge dx + \left(\frac{\partial Q}{\partial x}-\frac{\partial P}{\partial y}\right)dx\wedge dy$$$\eta = A\,dy\wedge dz + B\,dz\wedge dx + C\,dx\wedge dy$ が $2$-form のとき、$d\eta$ は $3$-form(三階反対称テンソル)になる。
$$d\eta = \left(\frac{\partial A}{\partial x} + \frac{\partial B}{\partial y} + \frac{\partial C}{\partial z}\right) dx\wedge dy\wedge dz$$このように、$d$ が作用するたびに測定器の次数が $0\to1\to2\to3$ と一つずつ上がっていく。核心は、$d$ が変えるのは測定器側(微分形式側)であって、スカラー場 $f$ そのものを別の矢印の場へ送るわけではない、ということだ。$f$ はスカラー場のままだが、$d$ が作用するたびに新しい測定器——$df$($1$-form)、$d\omega$($2$-form)、$d\eta$($3$-form)——が生み出される。
8.1.2 形式的な微分演算子は同じまま、新たな場を考える——$\nabla$ の立場
一方、第7章で導入した
$$ \nabla = \begin{pmatrix} \frac{\partial}{\partial x}\\[0.3em] \frac{\partial}{\partial y}\\[0.3em] \frac{\partial}{\partial z} \end{pmatrix} $$の世界では、形式的な微分演算子は同じまま、作用する相手に応じて新たな場が生まれる。$\nabla$ はつねに同じ演算子だが、スカラー場 $f$ に作用すればベクトル場 $\nabla f$ を、ベクトル場 $\mathbf{F}$ に作用すればスカラー場 $\nabla\cdot\mathbf{F}$ やベクトル場 $\nabla\times\mathbf{F}$ を返す。
スカラー場 $f(x,y,z)$ に $\nabla$ を作用させると、各方向の変化率を成分とする縦ベクトル場が得られる。
$$\nabla f = \begin{pmatrix} \frac{\partial f}{\partial x} \\[0.3em] \frac{\partial f}{\partial y} \\[0.3em] \frac{\partial f}{\partial z} \end{pmatrix}$$これは空間の各点に立つ矢印であり、もはや測定器ではない。$f$ が最も急に増加する方向とその強さを表す。
成分が $F_x,F_y,F_z$ であるベクトル場 $\mathbf{F}$ に $\nabla\cdot$ を作用させると、スカラー場が得られる。
$$\nabla \cdot \mathbf{F} = \frac{\partial F_x}{\partial x} + \frac{\partial F_y}{\partial y} + \frac{\partial F_z}{\partial z}$$各方向の変化率の和——湧き出しの強さ——を返す。
同じ $\mathbf{F}$ に $\nabla\times$ を作用させると、再び縦ベクトル場が得られる。
$$\nabla \times \mathbf{F} = \begin{pmatrix} \frac{\partial F_z}{\partial y} - \frac{\partial F_y}{\partial z} \\[0.3em] \frac{\partial F_x}{\partial z} - \frac{\partial F_z}{\partial x} \\[0.3em] \frac{\partial F_y}{\partial x} - \frac{\partial F_x}{\partial y} \end{pmatrix}$$渦の軸方向と強さを表す。
$\nabla$ の世界では、結果はつねに実空間の中の矢印かスカラーとして返される。$\nabla f$ も $\nabla\times\mathbf{F}$ も紙面上では同じ「矢印」であり、型による区別はつかない。
【ここまでのチェックポイント — §8.1】
- $d$ の立場:$d$ は測定器側(微分形式側)を変える。新しい測定器が生まれる。計量 $g$ と $\ast$ を通じて初めて、見慣れたベクトル解析の矢印として読み返せる。
- $\nabla$ の立場:形式的な微分演算子は同じまま、新たな場が生まれる。
§8.2 翻訳辞書の完成
第6章 §6.5 で $\mathrm{grad}=d$, $\mathrm{rot}=\ast d$, $\mathrm{div}=\ast d\ast$ という対応を導入した。ここで、この辞書を $\nabla$ の言葉と突き合わせて、完全な形で整理する。ここで完成するのは、三次元ユークリッド空間・本書の行列表現の範囲で使う翻訳辞書である。
以下の辞書では、ベクトル場
$$ \mathbf{F} = \begin{pmatrix} F_x\\ F_y\\ F_z \end{pmatrix} $$に対応する $1$-form を、計量 $g$ を使って
$$ \omega=\mathbf{F}^T g $$と読む。デカルト座標では $g=I$ なので、
$$ \omega = \begin{pmatrix} F_x & F_y & F_z \end{pmatrix} = F_x\,dx+F_y\,dy+F_z\,dz $$である。直交デカルト座標では成分は同じに見えるが、これは「同じ対象だ」という意味ではない。ベクトル場は縦ベクトル、$1$-form は横ベクトルであり、両者の対応には計量 $g$ が入っている。
8.2.1 勾配
$$ \mathrm{grad}\,f = \nabla f \quad\longleftrightarrow\quad df = \frac{\partial f}{\partial x}dx + \frac{\partial f}{\partial y}dy + \frac{\partial f}{\partial z}dz $$$\nabla f$ は縦ベクトル、$df$ は横ベクトルである。デカルト座標では成分が同じに見えるが、型は異なる。第6章の記法では、$df$ を対応する縦ベクトルとして読むには $g^{-1}(df)^T$ を使う。デカルト座標では $g=I$ なので、その成分が通常の $\nabla f$ と一致する。
8.2.2 回転
$$ \mathrm{rot}\,\mathbf{F} = \nabla \times \mathbf{F} \quad\longleftrightarrow\quad \ast d\omega $$$\nabla\times\mathbf{F}$ は縦ベクトル、$d\omega$ は$2$-form(反対称行列)、そして $\ast d\omega$ は$1$-form(横ベクトル)である。回転は「外微分で次数を上げてから、ホッジ・スターで次数を戻す」という二段階の操作だ。
$\nabla\times\mathbf{F}$ の $x$ 成分 $\frac{\partial F_z}{\partial y} - \frac{\partial F_y}{\partial z}$ は、$\ast d\omega$ の $dx$ の係数と一致する。これは第6章で確認した対応そのものである。
8.2.3 発散
$$ \mathrm{div}\,\mathbf{F} = \nabla \cdot \mathbf{F} \quad\longleftrightarrow\quad \ast d \ast \omega $$$\nabla\cdot\mathbf{F}$ はスカラー場、$\ast d\ast\omega$ も$0$-form(スカラー場)である。発散は「ホッジ・スターで $2$-form に変え、外微分で $3$-form に上げ、再びホッジ・スターでスカラーに落とす」という三段階の操作だ。
8.2.4 辞書の表
| 演算 | ベクトル解析側 | 微分形式(測定器)側 | ベクトル場として戻すなら |
|---|---|---|---|
| 勾配 | $\mathrm{grad}\,f$ | $df$ | $g^{-1}(df)^T$ |
| 回転 | $\mathrm{rot}\,\mathbf{F}$ | $\ast d\omega$ | $g^{-1}(\ast d\omega)^T$ |
| 発散 | $\mathrm{div}\,\mathbf{F}$ | $\ast d\ast\omega$ | $0$-form(スカラー場) |
$\ast$ の使用回数が増えるほど、$\nabla$ 表記と $d,\ast$ 表記の間の「翻訳コスト」が上がる。 ここで $\omega=\mathbf{F}^Tg$ である。勾配は $\ast$ がゼロ回だが、$df$ を通常の勾配ベクトルとして読むには計量による変換 $g^{-1}(df)^T$ が入る。回転は $\ast$ が $1$ 回、発散は $2$ 回である。この計量 $g$ と $\ast$ による翻訳辞書が、第7章 §7.7 の注で「微分形式のほうが汚い」と感じた原因だった。
【ここまでのチェックポイント — §8.2】
- $\nabla f \leftrightarrow df$, $\nabla\times\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\omega$, $\nabla\cdot\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\ast\omega$。
- $\ast$ の使用回数が勾配 $0$、回転 $1$、発散 $2$。この翻訳コストが「微分形式は汚い」という印象の正体。
§8.3 ストークスの定理を翻訳する
第5章 §5.6 で、我々はすでに $\int_{\partial S}\omega = \int_S d\omega$ という形のストークスの定理を導いた。第7章 §7.8.1 では、同じ定理を $\nabla$ の言葉で $\oint_C \mathbf{F}\cdot d\mathbf{r} = \iint_S (\nabla\times\mathbf{F})\cdot\mathbf{n}\,dS$ と書いた。この二つが同じものであることを、§8.2 の辞書を使って確認する。
8.3.1 $\nabla$ から $d$ へ
$\nabla$ 表記のストークスの定理を出発点とする。
$$\oint_C \mathbf{F} \cdot d\mathbf{r} = \iint_S (\nabla \times \mathbf{F}) \cdot \mathbf{n}\,dS$$左辺の $\oint_C \mathbf{F}\cdot d\mathbf{r}$ は、ベクトル場 $\mathbf{F}$ を曲線 $C$ に沿って線積分したものだ。$\mathbf{F}$ に対応する $1$-form を $\omega = F_x\,dx + F_y\,dy + F_z\,dz$ とすれば、第3章の定義によりこれは $\int_C \omega$ に等しい。
$$\oint_C \mathbf{F} \cdot d\mathbf{r} = \int_{\partial S} \omega$$右辺の $\iint_S (\nabla\times\mathbf{F})\cdot\mathbf{n}\,dS$ は、回転の法線成分の面積分である。ここでは、ベクトル場の法線成分つき面積分を、対応する $2$-form の面積分として読んでいる。辞書 $\nabla\times\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\omega$ を使うと、$(\nabla\times\mathbf{F})\cdot\mathbf{n}\,dS$ は $2$-form $\ast(\ast d\omega) = d\omega$ の面積分に対応する($\ast\ast = \mathrm{id}$ により $\ast$ が打ち消し合う)。
$$\iint_S (\nabla \times \mathbf{F}) \cdot \mathbf{n}\,dS = \int_S d\omega$$したがって、
$$\int_{\partial S} \omega = \int_S d\omega$$これは第5章 §5.6 で得た式そのものである。$\nabla$ の世界のストークスの定理は、辞書を通じて $d$ の言葉に翻訳すると、ただの $\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ になる。
8.3.2 翻訳の往復——どちらからでも行ける
逆方向もできる。$d$ の言葉で書かれた式に辞書を逆に当てれば、$\nabla$ の言葉に戻る。この双方向の翻訳が自由にできることこそ、第6章で $\ast$ を導入した最大の成果である。
注 (どちらの言葉で考えるべきか)結論から言えば、問題による。境界の形状が単純で、場の対称性が高い問題では $\nabla$ 表記の方が見通しがよい。一方、座標系が歪んでいたり、場の「型」を明確に区別したい問題では $d,\ast$ 表記が有利である。重要なのは、両方の言語を使えることだ。
注(筆者の本音)本文では「問題に応じて二つの言語を使い分ける」と書いた。これは読者のための建前である。筆者自身は、可能な限り $d,\ast$ の言葉で考える。なぜなら、$\nabla$ の記法は計算には便利だが、勾配・回転・発散の型の違いを同じ矢印やスカラーの中に押し込めてしまうからである。本書の目的は、ベクトル解析を禁止することではなく、その背後で暗黙に行われている型変換を見える場所に出すことにある。
§8.4 ガウスの定理を翻訳する
第7章 §7.8.2 のガウスの発散定理も、同様に翻訳できる。
$$\oiint_{\partial V} \mathbf{F} \cdot \mathbf{n}\,dS = \iiint_V (\nabla \cdot \mathbf{F})\,dV$$左辺の面積分は、$\mathbf{F}$ に対応する $1$-form $\omega$ を使って $\int_{\partial V} \ast\omega$ と書ける($\ast\omega$ は $2$-form であり、閉曲面上の面積分の対象となる)。
右辺の発散の体積分は、辞書 $\nabla\cdot\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\ast\omega$ により $\int_V \ast d\ast\omega$ と読める。ただし、スカラー場そのものは、まだ積分される $3$-form ではない。本書の流儀では、体積分の対象は $3$-form である。したがって、$\ast d\ast\omega$ を体積分するには、もう一度 $\ast$ を作用させて $d\ast\omega$ という $3$-form として読む。すなわち $\int_V d\ast\omega$ である。
結局、ガウスの定理は次の形に翻訳される。
$$\int_{\partial V} \ast\omega = \int_V d\ast\omega$$ここで $\eta = \ast\omega$($2$-form)と置けば、
$$\int_{\partial V} \eta = \int_V d\eta$$これは第5章 §5.7 で得たガウスの定理を $d$ の言葉で書いた表現そのものだ。そしてこの式は、すでに §5.9.1 で $\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ の $k=2$ の場合として統合されている。
8.4.1 三つの定理、一つの式
第7章で別々の定理として並べた三つの積分定理——グリーン、ストークス、ガウス——は、$\nabla$ の言葉では確かに異なる顔をしていた。しかし $d$ の言葉に翻訳すれば、すべてが $\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ の $k$ の値が違うだけの同一の式になる。
| $k$ | $\partial M$ | $M$ | 定理 |
|---|---|---|---|
| $0$ | $B-A$(二点) | 曲線 | 微積分学の基本定理 |
| $1$ | 閉曲線 | 曲面 | ストークス(グリーンを含む) |
| $2$ | 閉曲面 | 立体 | ガウス |
$k$ が違うだけだ。もはや三つの定理を別々に暗記する理由はない。$\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ 一つ覚えれば、あとは $M$ の次元に応じて適用するだけである。
【ここまでのチェックポイント — §8.3–§8.4】
- $\nabla$ 表記のストークスの定理は、辞書を当てると $\int_{\partial S}\omega = \int_S d\omega$ に還元される。
- $\nabla$ 表記のガウスの定理は、辞書を当てると $\int_{\partial V}\eta = \int_V d\eta$ に還元される。
- どちらも $\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ の $k$ が違うだけ。三定理は一つの式の異なる現れである。
§8.5 なぜ二つの言語は一致するのか
第6章 §6.3.1 で、スカラーを得る二つの方法を導入した。§8.1 では、それを $d$ の世界と $\nabla$ の世界として対比した。ここでは同じ説明を繰り返さない。§8.2〜§8.4 で見た翻訳を踏まえて、なぜ二つの言語が積分で同じ値を与えるのかを整理する。
8.5.1 二つの方法の違い
§8.1 で見たように、$d$ と $\nabla$ は同じことをしているわけではない。$d$ は測定器の次数を上げ、$0$-form、$1$-form、$2$-form、$3$-form のあいだを進む。一方、$\nabla$ は同じ形式的な微分演算子から、スカラー場や縦ベクトル場を作る。
つまり、$d$ の世界では「何を測る測定器なのか」が変わり、$\nabla$ の世界では「どのような場が生まれたのか」が変わる。この違いが、第7章で見た「すべてが同じ矢印に見える」問題の正体である。
8.5.2 なぜ一致するのか
方法①と方法②は、やっていることが根本的に違う。一方は測定器を作り替え、他方は新たな場を作る。操作方法も、出てくる対象の種類も異なる。
なのに積分すると一致する。たとえばスカラー場 $f$ の変化を線積分するとき、$df$(横ベクトルの測定器)を使っても $\nabla f$(縦ベクトルの矢印)を使っても、結果はどちらも $f(B)-f(A)$ だ。
$$\int_C df = \int_C \nabla f \cdot d\mathbf{r} = f(B) - f(A)$$なぜか。計量 $g$ と $\ast$ が両者を繫いでいるからだ。$\nabla f$ のような「矢印」と $df$ のような「測定器」は、型としては別物である。デカルト座標では $g=I$ なので同じ成分に見えるが、一般には $g$ による横・縦の変換を経由して対応づける。この変換を経由することで、$\nabla f$ と $df$、$\nabla\times\mathbf{F}$ と $\ast d\omega$、$\nabla\cdot\mathbf{F}$ と $\ast d\ast\omega$ が、積分のレベルで同じ結果を与えることが保証される。
そして $\ast\ast = \mathrm{id}$ があるから、変換を何度往復しても情報は失われない。この往復の自由こそ、両方の言語を話せることの力である。
注(二つの方法の使い分け——筆者の立場)筆者は、問題に応じて両方の方法を行き来する。対称性の高い系では $\nabla$ で見通しをつけ、座標系が歪んだり場の種類が入り組んだりする系では $d,\ast$ に翻訳して型の整合性を確認する。どちらか一方に固執する必要はない。重要なのは、翻訳の辞書を頭に入れておくことだ。
【ここまでのチェックポイント — §8.5】
$d$ の言語 $\nabla$ の言語 操作 外微分 $d$ ナブラ $\nabla$ 変化 測定器の次数が変わる 同じ形式的な微分演算子から新たな場が生まれる 結果 $1$-form、$2$-form、$3$-form などの測定器 スカラー場や縦ベクトル場 積分での一致を支えるのが、計量 $g$ と $\ast$ による翻訳辞書である。$\ast\ast=\mathrm{id}$ により往復は自由。
§8.6 曲線座標と二つの方法
ここからは第9章の実践編への入口である。本格的な計算練習は次章で行うが、その前に、辞書がデカルト座標を離れても機械的に作れることを一度だけ確認しておく。
§8.2 の辞書はデカルト座標 $(x,y,z)$ で $\mathbf{g}=I$ を前提としていた。一般の座標系では計量 $g = J^T J$ が単位行列ではなくなり、$\ast$ の辞書も変わる。ここでは円柱座標を例に、辞書の変化を確認したあと、§8.5 で整理した二つの言語の違いを目の前で回してみる。
8.6.1 辞書は計量で変わる
第6章 §6.1.3 で円柱座標の計量を導出した。
$$\mathbf{g} = \begin{pmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & r^2 & 0 \\ 0 & 0 & 1 \end{pmatrix}$$この $\mathbf{g} \neq I$ が $\ast$ の辞書にどう影響するか。デカルト座標では $\ast(dx) = dy \wedge dz$ だった。円柱座標の基底 $1$-form を $(dr, d\theta, dz)$ とすると、$\ast$ の辞書は次のように変わる。
$$\begin{aligned} \ast(dr) &= r\,d\theta \wedge dz \\ \ast(d\theta) &= \frac{1}{r}\,dz \wedge dr \\ \ast(dz) &= r\,dr \wedge d\theta \end{aligned}$$$r$ や $1/r$ という係数は $\mathbf{g} = J^T J$ の対角成分 $1, r^2, 1$ から決まる。$\ast$ の辞書は、その場所の計量を反映して場所ごとに異なる係数を持つ。
8.6.2 二つの方法を回してみる
辞書が変わるということは、§8.1 で対比した二つの方法の違いが具体的な計算に現れるということだ。ここで、同じ問題を二つの方法で実際に解いてみよう。題材は「二次元平面上のある点での発散を求める」である。
注 (二次元で考える)第1章以来、二次元の問題を扱うときは $z=0$ と断ってきた。しかし本章まで読み進めた読者に、もはやそのような断りは不要だろう。以下では二次元平面 $(x,y)$ とその極座標 $(r,\theta)$ だけで話を進める。
方法①——測定器側を変える。
パラメータ空間 $(r,\theta)$ と実空間 $(x,y)$、二枚のデカルト座標を用意する。パラメータ空間の用紙には、どこも同じ大きさの正方形グリッドが敷き詰められている。この正方形グリッドの上で、我々は測定を行う。
成分が $F_x,F_y$ であるベクトル場 $\mathbf{F}$ は実空間に住んでいる。その測定器 $\omega = F_x\,dx + F_y\,dy$ を、パラメータ空間の用紙に引き戻す。引き戻し(pullback)とは、実空間の測定器をパラメータ空間の言葉に焼き直す操作だ。写像 $\phi: (r,\theta) \to (x,y)$ で実空間に送るのと逆向きに、測定器を戻してくる。$dx = \cos\theta\,dr - r\sin\theta\,d\theta$, $dy = \sin\theta\,dr + r\cos\theta\,d\theta$ を使って、
$$\tilde{\omega} = F_r\,dr + (r F_\theta)\,d\theta$$が得られる。
注 (正規直交成分と form 係数)ベクトル解析では $\mathbf{F}$ を「長さ1の矢印」に対する成分 $(F_r, F_\theta)$ で表す。しかし微分形式の自然な基底は座標微分 $(dr, d\theta)$ であり、$d\theta$ 方向の目盛り間隔は場所によって $r$ 倍異なる。以後この節で $F_\theta$ と書くときは、ベクトル解析で使う正規直交方向の成分を意味する。$d\theta$ の係数そのものではない。$\tilde{\omega} = F_r\,dr + \tilde{F}_\theta\,d\theta$ と書いたときの form 係数 $\tilde{F}_\theta$ は $r F_\theta$ であり、ベクトル解析の成分 $F_\theta$ とは次元も値も異なる。この違いが、方法①と方法②の公式の見た目の差を生んでいる。
ここから先は $\ast d\ast$ の機械的な計算だ。極座標の計量 $\mathbf{g} = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & r^2 \end{pmatrix}$ から $\ast$ の辞書は $\ast(dr) = r\,d\theta$, $\ast(d\theta) = -\frac{1}{r}\,dr$ となる(§8.6.1 の二次元版)。$d$ は偏微分の係数をそのまま拾うだけ——途中に $\frac{1}{r}$ などを挟み込む必要は一切ない。
$$\begin{aligned} \ast\tilde{\omega} &= F_r(r\,d\theta) + (r F_\theta)\!\left(-\frac{1}{r}\,dr\right) = r F_r\,d\theta - F_\theta\,dr \\[0.3em] d\ast\tilde{\omega} &= \left(\frac{\partial}{\partial r}(r F_r) + \frac{\partial F_\theta}{\partial \theta}\right) dr \wedge d\theta \\[0.3em] \ast d\ast\tilde{\omega} &= \frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(r F_r) + \frac{1}{r}\frac{\partial F_\theta}{\partial \theta} \end{aligned}$$$\frac{1}{r}$ が現れたのは最後の $\ast(dr\wedge d\theta) = \frac{1}{r}$ の一箇所だけだ。途中の $r$ と $\frac{1}{r}$ は、$d\theta$ の係数に付いていた $r$ と $\ast(d\theta)$ の $\frac{1}{r}$ が打ち消し合った結果である。$\ast$ が計量の情報を一手に引き受け、$d$ は純粋に偏微分だけを担当する——この分業こそが方法①の最大の強みだ。
パラメータ空間では、測るグリッドの形を均一なまま考えられる。場所ごとの換算係数の違いは引き戻しが織り込み、$\ast$ が整理する。極限操作は最後にまとめて行えばよい。
方法②——同じ演算子から新たな場を考える。
今度は実空間に一枚のグラフ用紙を使う。極座標 $(r,\theta)$ の上に、点 $(r,\theta)$ を中心とする小さな面積要素を直接描く。$r$ 方向に $\Delta r$、$\theta$ 方向に $\Delta\theta$ の幅を持った小片だ。ここでは$\Delta r, \Delta\theta$ は微小でなければならない——角度があるために、有限の $\Delta\theta$ では動径方向の辺が平行にならず、単純な四角形にならないからだ。
この小片は扇形の一部である。$\theta$ 方向の内側の辺の長さは $r\Delta\theta$、外側の辺の長さは $(r+\Delta r)\Delta\theta$ で、$r$ が大きいほど辺が長い。成分が $F_r,F_\theta$ であるベクトル場 $\mathbf{F}$ がこの小片の四辺を通り抜ける流束を、一辺ずつ勘定する。
$r$ 方向:内側の辺から $-F_r(r,\theta) \cdot r\Delta\theta$ が流入し、外側の辺から $+F_r(r+\Delta r,\theta) \cdot (r+\Delta r)\Delta\theta$ が流出する。差を $\Delta r$ で割り、さらに面積 $r\Delta r\Delta\theta$ で割って極限をとれば $\frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(rF_r)$ が現れる。
$\theta$ 方向:$\theta$ 側の辺から $-F_\theta(r,\theta) \cdot \Delta r$ が流入し、$\theta+\Delta\theta$ 側の辺から $+F_\theta(r,\theta+\Delta\theta) \cdot \Delta r$ が流出する。同様に処理すれば $\frac{1}{r}\frac{\partial F_\theta}{\partial\theta}$ が現れる。
$$\nabla \cdot \mathbf{F} = \frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(r F_r) + \frac{1}{r}\frac{\partial F_\theta}{\partial \theta}$$実空間に直接小片を描き、壁を通る流れを数え上げる——絵は直感的だ。しかし座標系が変わるたびに小片の形が変わり、毎回異なる勘定を強いられる。$\frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(rF_r)$ の $\frac{1}{r}$ は扇形の面積 $r\Delta r\Delta\theta$ で割るために出てくるが、デカルト座標で同じ計算をしたときには現れなかった項だ。
どちらが優れているというわけではない
方法①は均一な正方形グリッドで測り、方法②は扇形の小片を描いて流れを数える。やっていることはまったく違う。しかし出てくる答えは同じ $\frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(rF_r) + \frac{1}{r}\frac{\partial F_\theta}{\partial\theta}$ だ。そして、この一致は発散に限らない。勾配も回転もラプラシアンも、すべての微分演算がこの二つの方法で構成できる。単純な座標変換なら方法②のほうが早いこともあるが、座標系が歪んだり場の種類が入り組んだりしたら方法①に切り替えればよい。
8.6.3 曲線座標での発散と回転
§8.6.1 の辞書と §8.6.2 の方法①を組み合わせれば、円柱座標での発散と回転の公式が機械的に導出できる。ここでの $F_r,F_\theta,F_z$ は、円柱座標の正規直交成分である。結果だけを示す。
$$\nabla \cdot \mathbf{F} = \frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(r F_r) + \frac{1}{r}\frac{\partial F_\theta}{\partial \theta} + \frac{\partial F_z}{\partial z}$$ $$\nabla \times \mathbf{F} = \begin{pmatrix} \frac{1}{r}\frac{\partial F_z}{\partial \theta} - \frac{\partial F_\theta}{\partial z} \\[0.3em] \frac{\partial F_r}{\partial z} - \frac{\partial F_z}{\partial r} \\[0.3em] \frac{1}{r}\frac{\partial}{\partial r}(r F_\theta) - \frac{1}{r}\frac{\partial F_r}{\partial \theta} \end{pmatrix}$$これらの公式を暗記するのは骨が折れる。しかし $\ast d\ast\omega$ という $d$ と $\ast$ の組み合わせで考えれば、$g = J^T J$ から $\ast$ の辞書をその場で導出し、機械的に計算できる。第9章では、この「辞書をその場で作る」技術を実践する。
【ここまでのチェックポイント — 第8章全体】
- $d$ と $\nabla$ は根本的に異なる世界観に立つが、積分では一致する。$d$ は測定器の次数を変え、$\nabla$ は同じ形式的な微分演算子からスカラー場や縦ベクトル場を作る。
- $\nabla f \leftrightarrow df$, $\nabla\times\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\omega$, $\nabla\cdot\mathbf{F} \leftrightarrow \ast d\ast\omega$ の辞書により、両者は自由に翻訳できる。
- $\int_{\partial M}\omega = \int_M d\omega$ 一本で、微積分学の基本定理・ストークス・ガウスのすべてを統合できる。
- $\ast$ の辞書は計量 $g = J^T J$ に依存し、曲線座標では $r$ や $1/r$ の係数が現れる。
- 重要なのは、一つの言語に固執せず、問題に応じて二つの言語を使い分けること。そのための辞書は、もう手に入れた。第9章では、この辞書をその場で作り、実際の問題に適用する。